【自縛・縛破】じばく・ばくは

日本語には、俗語や方言が多様に存在し、今も日々営々と産み出されている。これは、私たち日本人が繊細な感性を持って日々生きている、という考察では足りない、何か奥深い性質があるように思われる。例えば、地理的な閉鎖性、気候の循環的不安定性、災害の突発性、そういった外的要因だけ鑑みても、自分の気持ちや気分を時代の流れに即して表さなければ生き延びられようもない、という切迫をおそらく誰しも抱えて暮らしているのがこの日本列島であろう。かつて北欧で分析され尽くした絶望に似ているかもしれない。

特に近代文化が入って以降、日本では特に知識人や文化人の間で自死が流行した。生活の情報通信化が進むに従って、苦境に陥った無産者や、逆に富を持て余した傲慢な人、はたまた恋の非成就や学校内の不和だけでも、自死を選択する愚者が減らなかった。やはり彼彼女らは、自分の命を自分で賭すことで、静かな訴えを周りに起こしたいがためであり、その訴えをおそらく自分で現実に確認したくなかったのである。要するに無責任である。罪を免れるはずがない。

実際に爆薬で無辜の人を殺めるより、被害は少ないのかもしれない。自縛という語は、霊に纏わって使われていた。しかし、首を括る行為は、押し並べて、その後少なくない人々の束縛を破る世相に発展するため、特に生き残って括った意味を語り継ぐ人は英雄性を帯びることがある。だから、縛破という語も存在して良いと私は思う。自分の罪さえ破り清めた時、本当に束縛から自由になるのだろうから。

隠語は自分の命だけでなく、社会の秘密も守る。そう騒がないほうが、何があろうと人のためになる。情報通信社会はやや騒ぎすぎなきらいがあった。これからは穏やかな報道と爽やかな出版が求められると私は読んでいる。鳥の鳴き声が変わったことを追跡調査するなら、報道担当の性別に関わりなく、役割として好感が持てるし、朝目覚めの良い内容になると思う。啼鳥を至る所に聞いた詩人の朝のように。

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