書き言葉・読み言葉 に対し、見る言葉。すなわち、読み書く過程を経ない言葉の一側面。
外国人が街に溢れている理由として屢々揶揄されるのが、経済的な安寧である。百々のつまり、私の今月の出費は18万円弱だったのに、私史上最も多くの物財を購入したのである。その肚には、良品を安価に選択する知恵を研究し得たことが大きく、情報知識社会を自由に遊泳できた時代の賜物であった。
今や、外国人にとって、この日本に訪れる上で、経済性は障壁になり得ない。では、何が滞在動機を阻み、滞在時間を短縮させるのか。料理ではない。食材でも商材でもない。人情の可能性はあるが、歴史を踏まえた上で来訪する心得が、電子現実両界で流通しているようだ。私が思うのは、文字である。
言語は別に、辞書なしで撮訳できるし、普段から黙読しているのだから、すでに読む過程を踏まずとも意味が取れ、解釈もでき、空気の流れさえ透察できる力を備えた人は国内外にとても多くいるだろう。私とて、読書の際に読むという行為を経ずに多くの文献を読んで書いている。その時の「読む」は明らかに、すでに「見る」に変質している。
漢字や図字だけでなく、あらゆる文字情報が読まれるものでなくなってしまった。すでに「見る」さえ過ぎて先端感覚で感受するものになっているとも思われる。記号のこの感覚性が、科学を構築しうる才能の秘技であり、この時代やそれ以降に確実になった学習の人間的弱みである。やはり、人間は部屋から出ようが、悲惨であることからまだ逃れられていない。