ろうそくの意。癒しに関する部首。
【頻々】ちょくちょく
大学生になっても、高校生の頃の刺激が捨てがたく、深夜の渋谷に頻々繰り出し、宮下公園で家や身寄のない人たちと過ごしていた。余りに頻繁だったため、講義の定期試験の日に寝過ごし、単位を落とすことも初中だった。特にドイツ語は3回落第したため、社会人になって「私はドイツ語を4年間履修しました」と如為顔で語らっている。
「歩」という旁は、進捗の「捗」では「チョク」と訓むが、「渉」は「ショウ」であるし、瀕死の「瀕」は「ヒン」であり、元の「ホ・ブ・フ」を含め、あまり規則性がない。そこで、「捗」から訓みを借りてきて、「頻」を「チョク」と訓んだところで違和感はない。むしろ自然なくらいだ。
「ちょくちょく」という語には「ちょいちょい」と訛る形が存在しており、「たびたび」や、より丁寧には「おりおり」と類た言葉だ。漢字が充たっていない。何れも「何度も繰り返す」という意味だから、頻繁の「頻」を充てても意味は通るだろう。
未明の渋谷では長く歩いた。雨天でも深夜営業している量販店で、甜い瓶酒を軽く買って公園で干したりした。健康に目覚めた今ではそんな真似はできないが、当時の光景が頻りに思い出され眠れない夜がある。
【別欄】べつらん
別欄・・ベランダ
高校生の頃、建築が好きだった。街が好きだというのもあるが、それ以上に建物の幾何学的形態に関心があった。建物を訪れ、その中に入れればよいが、建築雑誌に載るような住宅や地方公共空間では、いつもそうはできない。したがって、その建物の図面を見て想像することになる。
その癖で、住宅の間取り図が好きだ。郵便受けに広告が入っていると、まず間取り図を目で探す。今住んでいるのは妻が選んだ集合住宅だ。2人で住んで10年になる。最高の間取りだと今でも思う。高校生の頃は建築家に設計してもらいたいと漠り考えていたが、懐にそんな余裕はない。
間取り図でいつも凸る場所がある。ベランダだ。上下の階からも離れて造られる、三方から独立した空間。住宅の中でも特殊な空間である。ベランダの由来はポルトガル語で、ヒンディー語に伝わった語彙らしい。英語では屋根のある場合をベランダ、ない場合をバルコニーという。
間取り図の欄でも実空間でも別注の空間。そんな意味でベランダを「別欄」と音訳してよいのではと思う。由来を訊かれたら間取り図を思い出してもらえば、と言おう。
【動段】どうだん、【動室】どうしつ
動段・・エスカレーター
動室・・エレベーター
社会人として10年以上経験した40歳手前の私だが、いまだに区別ができない言葉がある。エスカレーターとエレベーターだ。いつも勘違える。「エスカレート」も「エレベート」も上がっていく像が貼り付いた語なので、いったい2者を区別できる特徴は何なのかと考えてしまう。
考えれば何らかの答えが得られるものだ。私の答えは「動く階段」か「動く部屋」かだ。動く方向が斜向きか上下かという違いもあるが、本質は階段と部屋だと考えれば区別しやすい。しかし機と気づくのだ。ではどちらがエスカレーターでエレベーターなのか。
いっそ漢語にしてしまいたい。エスカレーターすなわち動く階段は「動段」、もう一方のエレベーターないし動く部屋は「動室」。そう言ってしまえばいいのだ。発音の際は、強勢がないように、高低をなくす。「どーだん」「どーしつ」と仄平りした発音になる。
しかし、科学技術の現代である。動く公共空間なんてこれからどんどん種類が増えていくことは容易に見える。すでに水平方向に動く歩道や、単線のモノレールがわが街には存在している。そうであれば、前者は「動路」、後者は「動軌」と言ったらいい。「どーろ」「どーき」と仄平りと発音すれば、同音異義語と区別できる。
ということで、私の個人的混乱から生まれてしまった単語たち。私と同じような間違いを犯す人が多ければ、という前提であるが、もしエスカレーターはエスカレーター、エレベーターは明らかにエレベーターだよ、と多数派に詰られたら、需要がないことが証明される。没案路線である。
【甚い】いた-い
他人から見て恥ずかしくなるような行動や言動を犯しても、気づかずに笑っているような人の様子。場違いなことをしても、その場の空気を読めずに、ずれたことしてしまう様子。
――平成の若者言葉
甚い人は、いる。ほかならぬ私がそんな人のひとりだった。今でもときどき甚いことをしてしまう。私が甚いと感じることができたのは、自分のほかに甚い人を見かけたからだ。
彼は電車に乗るや否や、窓側に急いで走って立ち、歌いだした。昭和時代に流行した曲のようだが、古くて知らないしわからない。そして、足を団々と鳴らし、踊りだしたのだ。そう、この電車は休日の旅客列車、田舎の山を車窓に見ていた旅の風情はぶちこわしだ。彼は温泉宿で有名な駅で浮々と降りて行った。歌ったまま、その旋律に乗りながら。
あまりにも空気を読めない、読めなすぎる。too much.
度が過ぎていることが、[いた-い] の本質ではないだろうか。空気を読めないとは、周囲から見て普通でないほど恥ずかしく感じる様子、つまり度が過ぎて異なっている様子だろう。ということで、適わしい漢字が存在する。「甚だ(はなは-だ)」「甚く(いた-く)」で使う「甚」である。
「甚く」とは、程度が激しいことを意味する語だ。度が過ぎている様子を表す語として、訓みの語呂までちょうどよく、ぴったりだ。
電車で踊って降りた彼は甚かった。彼は甚だ普通から異なった珍しい性格だった。その珍しさは才能さえ感じさせた。そんな意味にもなる感じがする。
漢語をつくろう。
日常が言葉で溢れている。にもかかわらず、言葉にならない感じを誰もが抱えている。
平・片仮名4文字の言葉は今も無尽蔵に生まれているのに、漢字の新語は殆ど出ない。
なぜだろう。もっと漢字を使って言葉を作っていったっていいじゃないか。
漢字が新語に使われない理由は、確かに推測がつく。
例えば「誰何」という語を使ったとする。読みは「すいか」だ。
お化け屋敷で「突然の暗闇に思わず誰何した。」のように使う。
「すいかした」と聞けば、関東圏の人は「夜に改札でも通ったのか」と思うだろう、
国内の他の地域の人なら「夜食に食べたくなったのね」とでも感じるだろう。
語が知られていないために、音読みが文字に結びつかないとき、意味不明になるのだ。
そんな障壁はあれど、漢字を使った新しい言葉がもっと誕生してよいはずだ。
かの谷崎潤一郎は、新語を無暗に作るべきでないと「文章読本」で述べていたが、
それから1世紀、新語は毎年湯くようにできている、殆どが平・片仮名を使って。
この部録では、漢字を中心に使って言葉を作り出す。辞書に載っていない語である。
時には新しく訓を当て、新たな組み合わせの語を作り、字そのものを作り出すこともある。
その言葉は、ここで生まれ、この活字と電子の世界をどこまで行き渡るだろうか。
この部録の活動に賛同いただける方がもしいらっしゃったら、どうぞご活動ください。
記事にひとこと書き残してくださってもいいですし、連絡をいただいてもかまいません。
百年後の日本、いや世界が、今世紀に作られた漢語をもとに、
より豊饒な表現を生むことを期待しています。日本語にはそれができます。
令和西周