くたびれぐだること、転じて、なんだかんだあっても長く続くこと
除草剤について学びに、自家用品店に当たりに行った。一万歩の旅程だった。草体のみを枯らす仕組みの製品を知り、では書斎の別欄にも栽培できよう!と、菜園を思い浮かべたら、以前観葉植物でさえ枯らした経験から、水遣りの自動化について考えた。書斎と別欄は窓で仕切られているから、水源は屋外に有たねばならない。今日は雨だ。桶に溜めれば不可能ではない。
別欄には、楽器制作にと転意した机の上に、瓶と液体と豆類が温室内に蔵ってある。因みに温室は常温で保温機能はない。粘土を買い足す予定で、電子調理器で焼成する品を既に調べ付けてある。管と孔の物理学について二十年弱考えてきたからか、どうも楽器をも孔管構造で見てしまう。この因習くだれを逆手に取り、楽器を作ってしまおうという魂胆だ。
連続音階といって、音から象徴性を剥ぎ取ってしまう旋律が、亜細亜にあるのを知っている。音名がつかないので、Bachの曲も喜劇に聞こえてしまうことを、みなとみらいの楽器店で弾いてみて知った。私は粘土で山法螺笛を作りたいと思っている。讃美歌のうち、簡単な頌栄の旋律を、数個の穴を押さえるだけで演奏できてしまえる、小さな土笛のことである。
私も実に長く続いたものだ。孔管の究理も、Bachへの愛好心も、植物への関心も。今振り返ると、本から飛び出して部録に、部録から飛び出して書斎に、書斎から別欄に、机も供し、楽器へも、讃美歌までも。どこまでも飛び出してゆく。なだらかな山並み。私の活動はそのようなかたちを成している。只管よりも、草管と。特にこれからは。感慨の上では、もう半分生きたのだから。