先人の文献から堯山のことを習得玩味するに止めること
言葉と光、どちらが人間に扱いやすいかといえば、言葉である。というのは、火を扱えた人種は滅んだからである。世界が分けられて造られたとすると、世界を想像するのこそが人間に付与された恵性であるので、世界を分けることは罪の根源ではないか。火で木を分けたうちはまだしも、人を分けたから、滅びただろうのである。
翻って、言葉を300年前の3万倍使っているらしい現代人である。分けに分けて呪われている。光が不可分であることを証明したとて、光すなわち物質ならいくら分けても分けることにならないと証して物事を作りに創る一方で、言葉の原子性を証明するには成功していない。意味は文脈共通性がありそうだし、文脈は集合無意識で共有されている気がするし、集合無意識は言葉を通して知恵を供給される保護幕である気もする。
こんな分けてはならない言葉を使って編みに網み込んだ文献が積まれている。紡ぐ人は健康であったろうし楽しめたろう。考える人は編んで苦労したろう。見晴る人は描き切るまで引きで見たために、描き切った後に己を見失ったろう。回復ないし恢復しなくてはならない。分けた人は呪われたろう、殆どの名前が残っていないのだろうから。世界を創造するのは造物主の仕事であるから、作る上では神を神とすることが肝要で、神になろうとしたら亡びる。神のようにある、というのは最高の態度技法の詩的標語であり、達成不可能な水準である。
でも、人間は存在で分けている。空間である。人がいるなら、それだけでその空間を分けている。人間は空間を分けて良いのであるし、空間は人間がいくらでも分けていいのである。今日は雨天で霰も降った。両腕で空を切って雨乞いをしてみた。自由だった。余我の格好をとってみた。自由を受信したみたいだった。空間を作る自由を満喫しつつ、先人の文献から大いに受学する日和の休日を、別欄に設えた金座椅子で微睡みながら能歩本したい。